「貴方の魂の中に、力を感じます」
私の口から、エリスとエリ・シシの物語が雨だれのように、途切れながらもこぼれ落ち始める。同時にそれは、メフィストとエボリの物語、悪魔のミサイルにまつわる永く悲しい歴史でもある。
その人は、丘から吹く風に髪をなびかせたまま、黙って私の拙い話を聞いてくれた。相づちも打とうとしないさまはいつもの通りだったが、紅玉色の瞳は、強い意志を帯びて輝いている。
同じだ、と思った。かつて彼女たちが見た、かのスペシャリスト達の目と。
「あなたに、これをあげます」
肌身離さず持っていた緑の石を、その人の手にそっと握らせた。冷たく、しなやかな指が石を包んだ。
「さようなら」
それだけ言うと、私は身を翻して歩き出した。丘が私を呼んでいる。なぜか、そういう気がしていた。
ガラス窓を、こつこつと誰かが叩いている。
「アルフレド!」
嬉しさのあまり、思わずその名を呼んだ。建てつけの悪い窓をこじ開けると、赤い小鳥は隙間から難なく入ってきて、ベッドの桟のところにちょこんととまった。
「ゲンヤから聞いたわ。フィガロに捕まるところだったんですって? 何もなくて良かった……」
アルフレドは、厳しい視線でこちらを見た。
「エリーゼ。あの時は、君が姿を見せないので、心配になって探していたんだ」
「そうだったの……ごめんなさい」
「いや、気にしなくていい。樹霊が効かない範囲まで出てしまった、私のミスだ。それにリンダたちに同行することで、ゴート機構も私に容易に手出しできなくなったからね。だからこうして、今日久方ぶりに君の家に飛んで来られた。バンバ=エンヤの動向だけが気にはなるが……」
言葉を切ったのは、室内の不自然さに気がついたからだろう。ベッドと小さなテーブル、わずかな食器以外に、この部屋には何もない。引っ越しをする前のような、がらんとした有様だった。何冊か持っていた本。こつこつ作り貯めていたパッチワークの壁掛けやクッション。いくらか部屋の彩りになっていたああいったものは、処分してしまったから。
「これね。前はもうちょっと色々置いてたのよ。でも、マーラー・ワットでやりたいことがあって、売れるものは全部売っちゃった」
怪訝そうな表情で、小鳥は首をかしげた。マーラー・ワットは、癒しやさらなる肉体強化のために、主に旅人が使う教会支部の名称だ。あまり一般人が出入りするところではない。
「マーラー・ワットに伝わる、疑問符が刻まれた箱に手を触れると、『何か』が起きるって言うでしょう。何が起きるのかは、働いている人も知らない。力を得た人もいるし、逆に取り上げられた人もいる」
「ああ、私もこないだ見てきたばかりだ。冷子が、いつか一度やってみたいって騒いでたっけ」
「そこで、メフィストとMの亡霊が出てくることがある、という噂が最近あるの。知ってた?」
アルフレドの目が驚愕で見開かれた。どうやら、一行にはまだ伝わっていなかったらしい。
「もちろん噂よ。でも、箱の由来と、今という時期を考えたら……どうかしら?」
マーラー・ワットに太古から伝わるという箱。人智を超えた「何か」が発生するということは、それだけのからくりが隠されているはずだった。
やがて、さえずりのように小鳥の喉から漏れた答えは、私が出したのとまったく同じものだった。
「──ロストメモリーの、悪戯か」
ヒルトン炭坑の奥底に在り、かつて伝説の三人が触れたノーストリリアの遺産。最初に触れたオクタビアンの姿を、ロストメモリーは模倣し続けているという。しかし、次に触れたメフィストやMのデータも、確実にその中にはコピーされているはずだった。
もし、箱が、ロストメモリーに繋がる端末の一種なのだとしたら。何かのはずみで、データの一部がこちら側に流れこんでくることもないとは言い切れない。
「オクタビーの褒美の時期は、宇宙の歪みが強くなる。ロストメモリーが予期しない動作を起こす可能性は、確かに高い」
それで、とアルフレドは言葉を継いだ。
「もう……試したのかい?」
ここから先は、どう言ったらいいのかよくわからなかった。昨日のことは、私の中でもうまく整理できていないのだ。
まだ残してあったコップを綺麗に洗うと、返事の代わりに水を満たしてアルフレドに差し出した。おいしそうに彼が水を飲むのを見ながら、私は事実だけをそのまま話し始めた。
「何も、起きなかった。箱に触れたら光が走って、そこまでは今までの人たちと同じだったの。でも何も……起きなかった。私も周りも、変わったところはない」
マーラー・ワットのシスターも「おかしいねぇ。『何か』は目に見える形で、必ず起きるもんだよ。あたしもここの勤めはずいぶん長いけどさぁ。あんたみたいな例は初めてだね」と、終始納得できないような表情のままだった。
「お金は返してくれるって言われたけど、断っちゃった」
何で? という顔で、アルフレドは目をしばたたかせた。私もそう思う。でもきっと、「何も起きない」ということこそが、箱が与えてくれた『何か』だったのだ。
ずいぶん長い沈黙を挟んでから、アルフレドはぽつりと言った。
「もし、メフィストか……Mが現れていたら、君はどうした?」
「さあ。自分でも、そこはうまく説明できないわ。たぶん最初に、本物かどうかなのか聞いたんじゃないかっていう気はするけど」
「今、あの二人がどこで何をしているのかは、私も知らない。そもそも、直に会ったこともほとんどないんだ。ただ──全ての宇宙はロストメモリーを通じて繋がっている。ロストメモリーがデータを現出させたなら、それは、例えすぐそばに本人がいたとしても、データのほうが『本物』になる。同じ人物が二人になるわけじゃなくて、一人のままだけれどね。たぶん、記憶と肉体の情報を引き継いだまま、位置座標だけが更新されたという扱いになるんだろう」
となると、噂のケースも「亡霊」ではなく、本人そのものだったということになる。誰だか知らないが、伝説のスペシャリストを一気に二人も召喚してしまうとは、なかなかの偉業を成し遂げたものだ。
「アルフレドたちもやってみたら? 何だったら、一緒に冒険できるかもしれないわよ。スペシャリスト三人と」
「三人?」
「ああ、一人はまだ正式に就任してないわね。今度オクタビーの褒美を貰うんだから」
この意味を理解した時の、彼の慌てようといったらまったく傑作だった。飛び立とうとして足を滑らせ、池に身を投げるように、コップの水の中に逆さに落ちてしまったのだ。さらにパニックに陥り、コップをひっくり返して帽子のようにかぶったまま、アルフレドはじたばたとベッドの上を転げまわった。
「まままままま……」言葉にならないものを発しながら、合間に盛大な咳が吐き出される。むせたのだ。
コップとアルフレドを分けてテーブルの上に置くと、私は一部水をかぶってしまった布団を、どう乾かそうかということを思案し始めた。壁掛けを一枚でも残しておけば、こういう時に代わりになったのになあ、と思ったりして。
「ままま……まさか、冷子がスペシャリストになるのか!」
「不正解よ」
幸い、ハンカチは売り払っておらず、ポケットの中にまだあったので、全身びしょ濡れのアルフレドを丁寧に拭いてあげることができた。
「それじゃ、タンホイザー?」ハンカチの下で、くちばしが忙しくぱくぱく動いている。
「さっきより近そうだけど、はずれ。あなた、三択問題はこれから絶対答えないほうがいいわね」
「……ありがとう。現エウテルペ王子として、君の忠告は肝に銘じておこう」
古代の奇術師のように、ひらりとハンカチを取り去ってみると、手のひらサイズの現エウテルペ王子(乾燥済み)は、堂々たるその姿を現した。
「一昨日、初めて私の未来を『視た』の。エリスの石を、リンダに渡してた」
「そうか……でも、果たしてリンダが石を使って、何かを成し遂げるというのかい?」
絞ったハンカチを、綺麗に伸ばして窓辺に干した。運が良ければ、明日の朝には半乾きくらいにはなっているかもしれない。
「何にもならないかもしれないわね。マーラー・ワットの例の箱と同じで。でも、これはこのまま私の元にあるべきものじゃないのよ。だから石は、エリスとエリ・シシの記憶を今まで『視せて』きた──そして、私の近い未来の幾つかのシミュレーションも」
「シミュレーション?」
「ええ。その中で最良のものが、リンダに石を渡す未来。私から見ての話だけれど」
そう、石は全てを『視せて』くれた。そして、私に最後の自由を与えた。どの道を選ぶかは、自身の意志に委ねられるのだと教えてくれた。
「明日、リンダに会おうと思うの。別に一対一じゃなくて構わないわ。夕暮れになる前に、丘のふもとに来てもらえないかしら?」
「わかった。これから皆に伝えておこう」
重々しくうなずいた後、アルフレドは窓の隙間から飛び立っていった。
アルフレドには告げなかったが、私──エリーゼの生涯は、あと数日で終わるだろう。
「さよなら」
届かないとはわかっていても、精一杯の声を出して手を振ってみた。赤い小さな影は、あっという間に屋根と屋根との間に消えていってしまった。