深くて暗い、しかしどこか温かな闇が支配する世界だった。
──ここは、どこだっただろう……。
懐かしい場所へ還ってきたのだと、思考のうちの何かが教えてくれていた。
不意に、届いたメッセージがあった。
『ようこそ、列なりの娘。我らが愛しい妹』
闇の中に、一人の女性の姿がぼうっと浮かび上がった。金色の髪に透きとおった緑の目。焦がれた待ち人に出会ったかのような顔で、心の底からの笑みを見せている。
『私は、ミサイルネス・エリス。ガニメデ・シシの娘にして、ノーストリリアの末裔』
すぐ横にもう一人、今度は少女が出現した。愛らしいピンクのワンピースに、先にポンポンのついた帽子がよく似合っている。
『紹介するわ。この子はエリ──エリ・シシ。あなたに先立つ、列なりの娘』
母親に甘えるかのように、エリ・シシはエリスの服の裾をぎゅっと握ってこちらを見た。そして一言、『……エリーゼ?』とつぶやいた。
エリーゼ。そうだった、それが私の名だったもの。
──私は、死んだのね?
『そう。エリーゼというあなたは、バンバ=エンヤに殺害されました。そして……』
始祖エリスは、手のひらを上に向けた。何色もの糸が複雑にもつれ合った、球のようなヴィジョンが空間内に表示された。それを「視た」時、私は理解した。あれから宇宙がどうなったのか、全てを。
──ありがとう。叶えてくれて。
『それは、こっちが言うべきことよ』 エリスはくすりと笑った。
『私も、あの人たちが好きだったもの。あなたの眼を通して、同じ一つの時代を生きて……私たちは神ではない。だから迷いもあるし、悲しみも生まれる。不完全な存在。でも、だからこそこのシステムには意味がある……』
天空から全てを見下ろすのではなく、列なりが肉体を持って地上に転生させられる意味もそこにある。人間のかたちでなければ発揮できないもの。列なりに残された、最後の力──意志。波動関数を収縮させ、重ね合わされた宇宙の中から、ただ一つを選択してゆく力。
リンダに石を渡すことで、私はゲンヤ一家を暴徒の襲撃から救った。石へ込めた想いは数多くの人々へ伝わり、教会のミサイリストまでもが彼らの救出に駆けつけてくれた。それから一家は平和に暮らし、アケローンでのゴート機構と八ノ地教の関係も、歳月が経つにつれ修復されていった。ゲンヤの長男のパーシヴァルが、ゴートの七賢者の一人に選ばれたのはその証だ。
『そして今、この子が生まれるわ……』
いつの間にか、エリスの腕の中に、赤ん坊が抱かれていた。赤ん坊は手に、しっかりとあの──エリスの石のペンダントを握り締めていた。
──これは、私たちの……?
『そう、新たなる列なり。エリーゼ、抱いてあげて。あなたが名付け親になるのよ』
──構わないの?
『エリーゼっていう名前は、私がつけたの。先に生まれたほうの特権』 ここでエリ・シシが初めて笑顔を見せた。
おっかなびっくり、エリスから赤ん坊を受け取る。しばらくの試行錯誤の後にうまく抱きかかえられたその子は、ずっしりと重く温かい、生命の塊だった。まだあまり生え揃っていない髪は、萌えそよぐ若草の色に似ていた。
『祈りましょう。新たな列なりに、我らが父ガニメデ・シシの加護が宿りたもうことを』
緑の光が幾つも発生し、蛍火のように闇の中をぐるぐると回りながら一点へ集う。エリスの石へ、私たちの記憶が吸いこまれてゆくのだとわかった。
『──さあ』
私は、その名を呼んだ。
通された小さな部屋は、恐ろしいほどの荘厳さに満ちていた。家具の調度はどれをとっても一級品。磨き抜かれた床には塵ひとつ落ちておらず、冗談抜きで自分の顔が映るくらいだった。首が痛くなるくらい見上げても、どこが天井なのかはっきりわからないほどの高さの吹き抜けになっているのが、余計に威圧感を増している。
さきの案内人には「しばらくここでお待ちください」と言われたものの、無人なのに椅子に腰かけるのもためらわれるような雰囲気だった。
「本当に、こんなところに僕なんかが来ちゃっていいのかな……」
部屋の途方もなさに呆然と立ちつくしていると、後ろでぱたんと扉が開く音がして、反射的に飛び上がってしまった。
「おや、先客か」
こわごわ振り向いてみると、そこには黒い上衣を着た人物が立っていた。茶色い髪をかき上げて、その人は気さくに握手を求めてきた。
「君もひょっとして、一緒に召集されたのかな?」
「ああ、たぶんそうみたいだね」
他の誰かが現れてほっとしているところに、またもう一人が入ってくる。今度は、紺色の覆面をかぶった人物だった。
「あ、今回選ばれるのは確か三人って聞いたから、あなたで最後かな? まず先に自己紹介といこうか。僕はガーディアン。どうぞよろしく」
てきぱきしたガーディアンに気圧されるようにして、慌ててこちらも名乗った。
「僕は……僕はエーリ。こちらこそよろしく」
「……エ……リ?」
覆面が、驚いたように僕の顔をじっと見た。
「いえあの、エリじゃなくてエーリです。ごめんなさい、発音が悪くて」
なんとなく場に気まずいものが漂ってしまったが、やがて覆面は苦笑しながら言った。
「気にすることはない。お前の名が、よく知っていた者に似ていたのでつい聞き返してしまった。遅れたな──俺はレッドクロスという」
なるほど、名に因んだものであるのか、彼の覆面の額には赤い十字架が刺繍されていた。
扉の向こう、はるかな遠くから新たな足音がかすかに響いてきた。ようやくお迎えが来たようだ。
「どんな任務なんだろうな……」
独り言のようなガーディアンの問いに対して、「想像はついている」とレッドクロスがあっさり答えた。
「本当? なんで知ってるんだい?」
「……そのために、俺がここに来たからだ」
謎めいた言葉を吐くと、これ以上会話を続ける気はないとばかりに、レッドクロスはふいと横を向いてしまった。愛想のいいガーディアンとは違い、どうやら、あまり多くを語るタイプではなさそうだ。
「よし、揃ったか」
さきほどの足音の主──長身の騎士は、僕たちの人数と名を確認すると、自分の後へついてくるようにと命じた。
「これから、あの御方に拝謁せねばならん。お前たちはまだ、この門を通ってから日も浅い。くれぐれも粗相のないように」
僕たち三人は、長い長い通路をそろそろと歩いていった。もっとも、緊張のあまり右手と右足を一緒に出しそうになったりしそうなのは僕だけのようで、ガーディアンは若干落ち着いていた。レッドクロスはといえば、これから舞踏会に参加するのかというような、自信と余裕に溢れた所作だった。貴族階級からここへ入ってきた組なのかもしれない。
その整った横顔を見ていると、突然何かを思い出しそうになった。さっき僕に向けられた表情は、単なる知り合いではない、もっと大切な誰かに再会した時のようなもので──
刹那、僕の頭の中が緑色の輝きで満たされた。
『時が来れば、全てわかるわ……安心なさい』
どこからか、女性の優しい声が聞こえた気がした。
「……エーリ?」
ガーディアンが、不思議そうな顔でこちらを振り向いている。知らぬ間に数歩分、立ち止まって何かを考えてしまっていたらしい。恥ずかしさにパニックを起こしそうになりつつも、失礼にならない程度に足を速めて一行に追いつく。
「三人よ、こちらへ……」
厳かな気分で、僕たちはかの御方の前に進み出てこうべを垂れた。やがて与えられるであろう任務がいかなるものなのか、期待と不安にも胸を高鳴らせながら。
僕──エーリの冒険は、今こうして幕を上げようとしていた。
列なりはまた、夜空へ淡く輝き始める。